篠栗小学校 校歌の中の「牧尾(まきお)」の話

校歌1番の歌詞に「霞の暇に打ち望む 牧尾(まきお) 鉾立(ほこたて) 米の山(こめのやま)・・・・」とあるが、このうち「牧尾」とは、どこなのか?
現在、「鉾立」「米の山」という山名はあるが、「牧尾」という山名はない。



「牧尾」とは、一体どこなのか?   

昭和57年、篠栗町役場発行の「篠栗町誌(歴史編)」を読み返していたところ、「篠栗町誌(歴史編)」の183ページに 「牧の尾」 という小さな語句を見つけた。
このページだけ読むと、「牧尾」は山の名前ではなく、山の尾根か山の一部の土地を表す、江戸時代の地名だったと推測される。現在、この地名は消滅しているが、少なくとも明治時代までは、人々が一般的に使っていた地名(通称?)だと思われる。

現在の「福岡県教育センター」大字高田?あたりから 「樹芸の森」に続く尾根のどこかが、
(または尾根沿い一帯が)昔、「牧尾」ではなかったかと推測される。


 【米の山から眺めた、福岡県教育センターの裏手の尾根・・・牧尾?】




    
資料 「篠栗町誌  入会地」の要約と抜粋

(以下は、入会地の要約)
 江戸時代の農民達は、農耕の肥料として、堆肥作りに欠かせない「草(山草)」をどこで入手するかが悩みの種だった。この「草」を自分の村で自給(入手)できれば問題がなかったが、自給(入手)できない場合は、隣の村までもらいに行っていた。津波黒村は、自給が足りず、許可を得て、隣村の高田村や田中村にもらいに行っていた。あることをきっかけにして、高田村は津波黒村の農民の入村を禁止したので、津波黒村の農民は山草(肥料・堆肥の原料)が入手できず、困ってしまった。
困り果てた津波黒村の農民は、村役人(庄屋)に訴えた。
その後、高田村、田中村、津波黒村の庄屋が集まってこの訴えを吟味した結果、
 

(以下は「高田文庫」原文改訳)
「高田村、津波黒村、田中村入会の草切りの所(草刈り場所)を、各村々の申し分
(言い分)によって定め、傍示をした。(境界の目印・傍示石?を置いた)」
「久原山の内、かわく谷という所の境、九尾頭の傍示塚より北の方、久原山、
 萩尾山の境まで
 牧の尾ぎり、らとう坂傍示塚より金出山の境下り龍能ぎり、
 北の方萩尾山、久原山の境まで、右の傍示塚より上北の方、右三か村入会草切り
 するように言い示した。」
 
                              寛文12年(1672年)高田文庫 原文改訳(篠栗町誌より)



 ・・・・ ということで、草刈り場所の境界が決まったようだ。 


なお、古地図の中に「牧尾」という地名は、今のところ見つかっていない。
○明治33年発行の大日本帝国陸地測量部作成の地図では確認できず。
○大正11年発行の国土地理院の地図では確認できず


「牧尾」は、高田から樹芸の森に続く山々と、深い関係があると考えられる。



篠栗町誌では「高田文庫」となっていたが、「藤木文書 完成品 尾仲村文書」では、
古文書の中に見られる「牧尾」という文字


            【米の山から篠栗町を望む】
 

          【本校正門から「牧尾?」方面を望む】


校歌の作詞者、作曲者は不明。またいつ頃できたのかも不明。
しかし、校歌が作られた時期だけは、現在歌われていない校歌の4番の歌詞を読むと推測できる。


             校歌4番のページへ リンク


(このページは、福岡県篠栗町の 篠栗小学校 萩尾分校のホームページです。)